“A martinet with a short fuse and probably not outstandingly intelligent”

Edward_St_John_Neale,_British_Charge_d'Affaires_in_Japan,_1964

生麦事件(1862年9月14日)発生時のイギリス代理公使、エドワード・シンジョン・ニール中佐。

初代公使のオールコックは第一次東禅寺事件(1861年7月5日)後の事件処理、ポサドニック号事件の対応後、賜暇で英国に帰国。(帰国中再婚している。)その代理として1862年5月に着任。それ以前は第二次阿片戦争後の中國北京勤務だった。

生麦事件の賠償をめぐるイザコザで、英国艦隊の7隻の艦艇と共に鹿児島湾にのりこみ、薩英戦争を引き起こした。3日間にわたる砲撃戦でイギリス側の損害は死者13人、負傷者50人。(薩摩側は死者8名、負傷者1名。)

表題は元駐日英国大使のサー・ヒュー・コータツィのニール中佐評。「軍隊での経験から当然ながら規律を重んじる人物で短気、そして多分あまり頭が良くなかった。」とはキツイ。

エリート外交官の世界と、アジアに展開する大英帝国商人、そして母国イギリスの世論の狭間で、ニール中佐の立場も辛いものがあったろう。

当時、インドにおけるセポイの乱(1857〜1859年)、第二次阿片戦争(1856〜1860年)と、軍人・兵士そして外交官たち血と汗の犠牲による大英帝国の拡大と運営の下で、私腹を肥やす傍若無人な商人階級に対する反感がイギリス・エリート階級の間に強まっていた。駐北京英国公使フレデリック・ブルースは、外務大臣宛の手紙で生麦事件で命を失ったチャールズ・レノックス・リチャードソンを評してこう語っている。

私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である。

イギリスの階級意識の根は深い。

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