日本人のAI対応力と文化的素養

先日、某団体の勉強会に出席してAI/IoT/Big Dataの講義を聞いてきた。

政府機関の顧問をつとめるという講師の方のレクチャーは、日本の官民一体の取り組みを丁寧に説明していて、興味深かったが、レクチャー後の懇親会で「HBOのヒットシリーズ、『Westworld』みてますか?」と聞いたら、「それなんですか?」とのお答え。

最近のアメリカのエンタメ界ではAIのテーマが花盛り。「Westworld」のリメイクはその一つの頂点だが、今年の後半にはこの分野の草分け的「Blade Runner」の続編が公開される。スカジョが少佐を演じる「攻殻機動隊」の実写版もこの流行りにのったものという一面があるとおもう。

勉強会の講師氏も言っていたが、こうしたAIやロボットの話になると、「日本人には鉄腕アトム以来の伝統で、こうした技術の進歩を受け入れやすい土壌がある。」というが、本当にそうだろうか。

日本の映像エンタメ文化の流れでは、アトム以降、「マジンガーZ」あたりで、機械に主人公が乗り込むというパターンが定着し、ロボットは「乗り物」と化した。なぜ「乗り物」が擬人化されたロボットの形をしていなければならないのかという問題点は「ガンダム」のバックストーリーが語られるまで解決を見なかったが、「ガンダム」はマシーンの進歩の話ではなく、そのパイロットが「ニュータイプ」として覚醒していくという「ヒトの超人化」という話にすり替えられてしまった。

実際のところ、日本人のロボットやAI(人工知能)に対する感情は、「銀河鉄道999」の星野鉄郎が機械伯爵に対して抱く「復讐心」のままなのだろう。それは都会のエリートが勝手に推し進める、人間の「素朴な価値観」に対する冒涜であるという考えだ。

日本のエンタメ界もアメリカに負けず、こうしたテーマをもっと推し進めた作品を発表してもいいと思うのだが、あいかわらず薄っぺらな恋愛ドラマにあけくれるテレビを斜めから眺めるに、絶望的な気持ちにしかなれない。

能力主義・メリトクラシーの限界と「歩哨に敬礼」

早いもんで今年の春先の話になってしまうが、やっとこさ時間を作って映画「ザ・ビッグ・ショート(邦題「マネー・ショート 華麗なる大逆転」)」を観に行った。アカデミー賞候補にもなっただけあって、リーマン・ショックに向かう2007・8年のサブプライム住宅ローン危機を題材にしたマイケル・ルイスの原作を上手に映画化した佳作だった。

映画は原作に忠実で、住宅ローンから派生した証券化金融商品のインチキを他に先んじて見抜いた3つの投資家グループのそれぞれのストーリーを追っている。2時間ちょっとの上映時間で、普通の人には馴染みのない金融商品の解説も交えながら、結局交錯することのない3つのストーリーラインを追うのは大変だなと感じていたのだが、巧みな脚本と編集でまとめあげたのはお見事だと思う。

だからこれは映画作品への批判ではないのだが、原作を読んだわたしとしては、映画において原作者マイケル・ルイス個人の視点が前面に出てこなかったことが残念といえば残念だった。

マイケル・ルイスはその処女作「ライアーズ・ポーカー」(1989年)で自らのソロモン・ブラザーズでの経験をもとにウォール・ストリート/アメリカ金融業界のいうなれば「浅はかさ」を描いて以来、時折りスポーツの世界に取材した「マネー・ボール」(2003年)や「ブラインド・サイド」(2006年)などを発表しつつ、常にこの金融業界のテーマに戻ってきている。2014年に発表した「フラッシュ・ボーイズ」は、いわゆるハイフリークエンシー・トレーディングの世界に切り込み、これに対抗する「公正な」証券市場の開設に挑むアウトサイダーの苦闘を描いている。

この「フラッシュ・ボーイズ」の出版に合わせて、マイケル・ルイスがアメリカのトークショー・ホスト、コナン・オブライエンとやった、ネット向けのロング・インタビューをYouTubeで見つけて拝見したのだが、これが面白かった。

このインタビューでのマイケル・ルイスの根本のメッセージは、ウォール・ストリートをその典型としてアメリカ社会において行き過ぎた能力主義・メリトクラシー(meritocracy)がその倫理観・価値観を蝕んでいることに対する警鐘だった。

かつて一部の特権階級が支配していたウォール・ストリートの世界では、「富と成功」はその大きな部分が「生まれと育ち」に拠る幸運の産物だった。富めるものはそれを幸運の恩恵として享受し、貧しいものは「不幸な人たち」だった。こうした状態が社会の公平という観点から問題だったことは論を待たない。

ところが「富と成功」が個人の能力次第というタテマエになった現代社会において、富めるものは「成功者」としてこれを正当化し、貧しいものは「不幸」なだけでなく「敗者(Losers)」として蔑まれる存在となってしまった。

しかし成功した人々は、本当に価値ある能力を元に富を得た人々なのだろうか。それは彼らが主張するように、正当化し得る能力主義の結果なのだろうか。そして弱者を負けるべくして敗北した「敗者(Losers)」と結論付け、これを切り捨てる社会は本当に幸福な社会なのだろうか。

個人的にはこうした議論がハーヴァード大を優等(Magna Cum Laude)で卒業したコナン・オブライエンと、プリンストン大の卒業生であるマイケル・ルイスの間でなされていたことが面白かった。ハーヴァード大は日本人にも馴染みの深いアメリカの名門大学だが、プリンストン大は(あくまでもわたしの個人的交友関係からの印象だが)アイビー・リーグの中でも特に慶応幼稚舎的な臭いが濃い大学だ。

こうした「行き過ぎた能力主義」の片鱗は、昨今の日本でも見てとれる。書店の店頭には「〇〇力」だの、「〇〇流⬜︎⬜︎術」だの、「〇〇で教える△△」などなどといった、「ブランド」と「能力」を結びつけた題名の本が、これでもかこれでもかと平積みになっている。先日、混み合った電車の中で、「成功している人が必ずしている〇〇」などといった題名の本を座席にドッカと座って熟読している若者が、目の前に立った荷物を抱えた妊婦に気付きもしない様子を見て、よっぽど張り倒してやろうかと思った。

イギリスの陸軍士官学校(その所在地からサンドハーストと呼ばれる)で、士官候補生は「まずは歩哨に敬礼せよ」と教えられるという。上官に対して敬礼するのは当たり前だが、まずは歩哨に立つ一兵卒の労をねぎらえというのだ。この手の話を最初に聞いたのは、イギリスの元自由民主党(Liberal Democrats)の党首だったパディ・アシュダウン氏(自身も元海兵隊特殊部隊士官)がサッチャー元首相を思い出しての発言だった。サッチャー改革の真っ只中、困難な法案審議となるとサッチャー首相は深夜・早朝、徹夜で議会対策の走る一年生議員を鼓舞して回ったという。「彼女はサンドハーストの士官候補生が最初に教わることを忠実に実行していた。」

 

軍隊という保守的な組織で、新米士官と一兵卒を分けるものは個々の能力ではなく、「生まれと育ち」以外のなにものでもない。もちろん現代においては一兵卒にも「たたき上げ」の士官となる道はあるが、士官学校に入学できるのは概ね良家の子弟だ。そうした社会環境を踏まえ、幸運にも上官たる立場を占めるに至ったものが、立場上部下としての地位に甘んじている一兵卒の労に対して、相応の敬意を表することがリーダーシップへの最初の一歩なのだ。そこには個々の能力主義を超えた、軍隊という集団におけるその全体の能力向上のための共同体としての知恵が働いている。

こうしたイギリス人の考え方と比較すれば、アメリカでリーダーシップ論が盛んなのも納得がいく。能力主義にのっとり、それ相応の努力と犠牲の代償として「リーダー」としての立場に至ったものが、能力主義レースの「敗者」とみなされる部下をまとめ上げるためには、そこに価値観の飛躍が必要になる。

こう考えると、哀しいまでにムラ社会の価値観に支配された日本人が、アメリカ流の「〇〇力」を身につけてムラ社会の引力圏から突出しようというのは、どうも入り口を間違えた考え方なのではないかと思えるのだがどうだろう。

もちろんそこに限界があるとしても、能力主義は今後も世界を席巻するだろう。全世界的な大競争時代を迎えた現代においては、個々の能力とその「マーカー」としてのブランド(例えば出身大学とか資格、キャリア)は、ますますその重要性を増していくだろう。しかしそれは個人、ひいては社会全体の幸福という次元に置いては、表層的なものでしかない。

「実るほど こうべを垂れる 稲穂かな」などというと、ジジババ的な説教臭がきついが、「〇〇力」で手っ取り早くエラくなろうという人も、まずは「歩哨に敬礼」の精神に立ち返ることが大切なのではないか。それは日・英の国と文化を超えて共通かつ日本固有の精神風景に根ざした「作法」であり、ひいては日本人としての「気質」や「品」といったものにつながる日本社会の重要な価値観だと思えるからだ。

ネガティブ金利への不都合なリアクション

先日その講演を聞きに行ったFT紙のロビン・ハーディング君の記事。

– Japan banking unions drop pay rise demands amid negative rates

お金を使ってもらいたくてネガティブ金利にしたら、労働者が賃上げ請求を引っ込めるという、政府の意図とは真逆の対応。

これがネガティブ金利政策がもたらす予測不可能な大衆への心理効果だな。

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